spectre のドキュメントには、ケーブルの計算例がありませんし、表皮効果 をどう扱っているかについては、ソースコードを見ないとわかりませんので、そのあ たりの情報を含めて、ケーブルの特性計算の手法を解説します。
spectre では、伝送線路として、次のふたつのモデルを用意しています。
1) tline - 表皮効果を含む損失を考慮した線路 2) msline - 無損失のマイクロストリップ・ライン
ケーブルに使われる tline 伝送線路のモデルは、次のとおりです。
+---+ +---+ o---+-----+---| R |---| L |---o +-+-+ +-+-+ +---+ +---+ | G | | C | +-+-+ +-+-+ o---+-----+-------------------o R: レジスタンス(周波数特性あり) L: インダクタンス(周波数特性なし) G: コンダクタンス(周波数特性なし) C: キャパシタンス(周波数特性なし)R は直流抵抗と表皮効果の組み合わせだけを考慮したもので、表皮効果として は、円柱導体と円筒導体のふたつが扱えます。表皮効果の指定方法としては、直流抵抗 dcr と、表皮効果の変曲点 corner の組み合わせを使います。
corner というのは、skin-depth が導体の厚さ(円柱の場合は半径)と等し くなるような周波数で、次式から計算します。
corner = 1 / (μ*σ*(π*t)^2) [Hz] (1) ここに、μ = 透磁率 σ = 導電率 π = 3.1415.. t = 導体厚(円柱の場合は半径)spectre の単位系は MKS ですから、標準軟銅の場合は、
corner = 4.37e-3 / (t ^ 2) (2)になります。
skin-depth というのは、電流密度が表面の 1/e になるような厚さですが、 導体の厚さが無視できるような、十分に高い周波数では、skin-depth の厚さと等し い導体の直流抵抗が高周波の抵抗に等しくなり、その値は次のとおりです。
δ = sqrt(2 / (ω*μ*σ) (3) ここに、δ = skin-depth [m] ω = 2 * π * f f = 周波数 [Hz]corner を使うのは、円柱導体だけでなく、円筒導体も計算できるようにす るためと思われますが、プログラムの内部 (device/tline.c) では、次のように計算 しています。
1) corner より十分低い周波数 - ベッセル関数のテーラー展開近似 2) corner に近い周波数 - ベッセル関数の双曲線関数、正弦関数近似 3) corner より十分高い周波数 - ベッセル関数の漸近展開近似このため、かなり高い精度の計算が行われます。
L と C には周波数特性がなく、vel (速度係数)と z0 (特性インピーダ ンス)から計算されます。
G も周波数特性がなく、誘電体損失の大きな線路は計算できません。しかし、 実用的なケーブルでは、導体損失に比べて誘電体損失は十分小さいですから、あまり 問題にならないと思いますし、どうしても必要なら、複数の誘電体損失に対して、ご く狭い周波数範囲で計算することで対処することもできますし、プログラムを変更し て、誘電体損失のあるモデルを扱うようにすることもできそうです。
マイクロストリップ・ライン microstrip line については、無損失線路だけ が扱えるようになっていて、
l 線路の長さ w 導体の幅 h サブストレートの厚さ t 導体の厚さ eps サブストレートの誘電率を与えると、特性インピーダンスと位相特性を計算するようになっています。不平衡 線路のモデルですから、無限大の GND パターンの上にサブストレートがあって、そ の上に、抵抗のない導体板がのっているという構造です。
マイクロストリップ・ラインの場合は、プリント基板のごく小さな場所で使 われるのが普通ですから、無損失のモデルでも、実用上は十分だと思われます。
同軸ケーブルの場合は、近接効果やシールドによる渦電流損失がなく、純粋 な表皮効果だけですから、spectre の tline モデルで、かなりの精度で計算すること ができます。
同軸ケーブルの場合、導体表面積の少ない中心導体の損失がほとんどで、外 部導体の損失は、75 Ohm の同軸ケーブルなら 10 % 程度ですから、最初の近似として は、外部導体を無視することができます。
例えば、長さ 1000 m の JIS C 3502 の TVECX (テレビジョン受信用ポリ エチレン同軸ケーブル)の伝送特性を求めることを考えます。このケーブルの構造 は、
1/0.6 A * 3.7 * 16/9/0.14 A * 6.0 PVCですから、
dcr = 63.4 mOhm corner = 48.5 kHzになって、次のような回路モデルになります。
; TVECX coax (center conductor only) global gnd model TVECX tline dcr=63.4m corner=48.5k v 1 gnd vsource vdc=0.0 mag=1.0 phase=0.0 r1 1 2 resistor r=75.0 TL1 2 gnd 3 gnd TVECX z0=75.0 vel=0.66 len=1000.0 r2 3 gnd resistor r=75.0 FreqResponse ac log=50 start=10M stop=1000M Spectre options ascii=yesこれは、下記のような回路ですが、モデル名 TVECX で中心導体の交流抵抗 だけを定義して、エレメント名 TL1 で特性インピーダンス、速度係数、ケーブルの 長さを記述しています。
+----+ +-----+ +--(1)---| r1 |---(2)---| TL1 |---(3)---+ +-+-+ +----+ +--+--+ +-+--+ | v | | | r2 | +-+-+ GND | +-+--+ +--------------------------+------------+ac コマンドは、10 MHz から 1000 MHz まで、50 点の対数掃引で、電源周 波数を変えた場合の、各ノードの電圧と電流を計算させます。
options の ascii=yes は、計算結果を出力する spectre.raw ファイルのデ ータにバイナリでなく ASCII 文字を使用するようにさせるためで、ファイルが大き くなりますが、計算結果を直接目で見たり、awk 等で利用することができるようにし ようという意図です。
このファイルの名前を tvecx として
$ spectre tvecxを実行すると、周波数、ノード 1, 2, 3 の電圧、v, 2, 3 の電流が計算され、 spectre.raw ファイルに記録されます。すべてのデータは、x + j *y 表示のベクタ で、x と y のペアになりますので、注意してください。
この結果を nutmeg で見る場合は、
$ nutmeg spectre.rawと起動して、例えば、
nutmeg 1 -> print v(2) v(3)を実行すれば、ノード 2 と 3 の電圧がわかります。グラフィック端末が使えれば、
plot v(2) v(3)でグラフ表示ができます。
ケーブルによる減衰を求める場合は、
print FREQ db(v(3))-db(v(2))とか
print FREQ 20*log(abs(v(2))/abs(v(3)))で db/Km の値を表示させることができます。
neper 単位で表示させる場合は、
print FREQ db(v(3))-db(v(2))/8.686とか
print FREQ ln(abs(v(2))/abs(v(3)))とします。
JIS 3502 に記載されている最大減衰量の記述は、ほぼ 40 % 程度の余裕を 見ているようです。
spectre の計算方法では、損失の少ないケーブルで誤差が大きくなります。 経験的には、通常のケーブルについて、
***************************************************** 最低 10 m、できれば 100 m 以上の長さ (len) で計算する *****************************************************のが良いようです。
内部導体と外部導体の corner が同じなら、両方の直流抵抗の合計を rdc にしてしまえば良いのですが、そうでない場合は、内部導体だけを考慮したモデル と、外部導体だけを考慮したモデルを直列に接続すれば、両方を考慮したモデルと 同じ減衰が得られます。これは、すべてのケーブルに対して、
α = R / R0 + G * abs(Z0)^2 / R0 (4) ここに、α = 減衰定数 R = 導体抵抗 G = コンダクタンス Z0 = R0 + j * X0 = 特性インピーダンスが成り立つことから、明かです。
直列接続すると、時間的な距離が2倍になりますから、速度係数を2倍に しておけば、もとと同じタイミングになります。物理的には変ですが、計算上では 支障ありません。速度係数を変えずに、直流抵抗を2倍にしてもかまいません。
前者の方針で作ったモデルは次のようになります。
; TVECX coax (center conductor + outer conductor) global gnd model TVECXin tline dcr=63.4m corner=48.5k model TVECXout tline dcr=8.09m corner=223.0k v 1 gnd vsource vdc=0.0 mag=1.0 phase=0.0 r1 1 2 resistor r=75.0 TL1 2 gnd 3 gnd TVECXin z0=75.0 vel=1.32 len=1000.0 TL2 3 gnd 4 gnd TVECXout z0=75.0 vel=1.32 len=1000.0 r2 4 gnd resistor r=75.0 FreqResponse ac log=50 start=10M stop=1000M Spectre options ascii=yes
3. 平衡ケーブルの表現
spectre の tline モデルは不平衡伝送ですから、平衡伝送の場合は二つの 不平衡回路を組み合わせます。
3.1. シールドなしのオープン・ワイヤ
シールドなしの平衡ケーブルで、近接効果と誘電体損失が無視できる場合は、 簡単です。例えば、2260 150 Ohm フィーダの構造は、
[7/0.18 A * 1.4 PE ^2]ですから、速度係数の実測値が 0.74 であることと、理論的考察と、Kennely の実験 から、**************************************************** 7 本よりの導体の交流抵抗は、同じ断面積の単線と等しい (4) ****************************************************ことを考慮して、z0 = 150 vel = 0.74 dcr = 137.3 mOhm corner = 77.2 KHz次のようなモデルになります。corner の計算は、同じ断面を持つ単線の値になってい ます。; 2260 - 150 Ohm feedeer global gnd model FEEDER tline dcr=137.3m corner=77.2k v1 1 gnd vsource vdc=0.0 mag=0.5 phase=0.0 r1 1 2 resistor r=75.0 TL1 2 gnd 3 gnd FEEDER z0=75.0 vel=0.74 len=1000.0 r2 3 gnd resistor r=75.0 v2 4 gnd vsource vdc=0.0 mag=0.5 phase=0.0 r3 4 5 resistor r=75.0 TL2 5 gnd 6 gnd FEEDER z0=75.0 vel=0.74 len=1000.0 r4 6 gnd resistor r=75.0 FreqResponse ac log=50 start=100M stop=1000M Spectre options ascii=yesこのモデルの計算結果を、nutmeg でprint db(v(3))-db(v(2))で処理すれば、dB/km 単位の減衰がでます。本当は、print db(v(3)+v(6))-db(v(2)+v(4))ですが、減衰の場合は、片側だけ考えても同じです。(4) 式を考慮すれば、近接効果が無視できるシールドなしの平衡ケーブルは、 平衡ケーブルと同じ中心導体を持ち、特性インピーダンスが半分で、外部導体による 損失のない同軸ケーブルと同じ減衰特性になることがわかりますから、この性格を利 用して、
7/0.18 A * 1.4 PE * ?/?/? * ?といった構造の同軸ケーブルに置き換えて計算することもできます。つまり、同じ導 体サイズなら、平衡ケーブルの損失は、同軸ケーブルに比べて外部導体分だけ少なく なりますが、実際の使用条件では、外部物体による損失がありますから、概して平衡 ケーブルのほうが不利になります。
3.2. シールドのある平衡ケーブル
平衡ケーブルのシールドには、同軸ケーブルと違って、大きな渦電流損失が ありますから、spectre で簡単に計算するのは無理です。
例えば、3080 AES/EBU ディデタル・オーディオ・ケーブルの構造は、
(7/.18 A * 1.36^2 + 7/0.18) * ?/0.12 * 5.0 PVCですが、このケーブルのシールドによる損失は、導体損失の数倍になります。ただ、シールドによる損失も、導体による損失も、同じ渦電流という物理機 構によるものですから、シールドの損失を導体サイズに換算する方法で、計算可能に することは出来るのではないかと思われ、これは、今後の研究課題の一つになります。
概算する場合は、導体による損失の数倍程度を見込むといったほうほうで、 ある程度役にたつ結果は得られます。
4. 結論
spectre は spice 等の時間軸による計算と違って、周波数領域で計算しま すから、渦電流を持つ導体抵抗のような周波数特性を持つ素子も扱えますから、かな り現実のケーブルに近い特性を計算することができます。
しかし、現在の spectre の伝送線路モデルでは、
1) 導体抵抗については、円柱導体と円筒導体の表皮効果だけを考慮している。 だけで、 2) 近接効果やシールドの渦電流損失を考慮していない。 3) 誘電体損失を考慮していない。ため、同軸ケーブルとシールドなしの平衡ケーブルへの応用に限られます。誘電体損 失については、その値が一定と見られる、ごく狭い周波数範囲について計算するよう にすれば、対処可能です。もともと、spectre の目的は、半導体素子を含む回路の周波数応答を計算す ることにありますから、本来の機能で利用する場合は、大きな威力を発揮します。
また、spectre には、時間軸波形を計算する方法がありません。
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